『プラダを着た悪魔2』映画レビュー|20年後に問う、変えてはならないものとは何か
この映画をひと言で言うと
20年という時間をきちんと演じた続編。時代の変化の中で「引き継ぐべきもの」を問い直す作品で、前作ファンの期待に対して誠実に応えている。
作品の背景・前情報
監督 | デビッド・フランケル |
|---|---|
脚本 | アライン・ブロッシュ・マッケンナ |
原作 | ローレン・ワイズバーガー |
出演 | メリル・ストリープ、アン・ハサウェイ、エミリー・ブラント、スタンリー・トゥッチ、レディ・ガガ、ケネス・ブラナー、ルーシー・リュー |
ジャンル | コメディ・ドラマ |
製作国・年 | アメリカ・2026年 |
上映時間 | 119分 |
配給 | ディズニー(20thセンチュリー・スタジオ) |
日本公開 | 2026年5月1日 |
あらすじ
ランウェイ誌のアシスタントを辞してから20年、アンドレア(アンディ)・サックスはニューヨークの著名なジャーナリストになっていた。しかし授賞式の夜、ニュースルーム全員がテキスト一本で解雇される。一方、ミランダ・プリーストリーはスウェットショップを使うブランドの提灯記事を見逃したとして窮地に立たされていた。親会社のオーナー、アーヴ・ラヴィッツがミランダの頭越しにアンディを特集編集長として採用するという事態が重なり、20年越しの二人の関係が再び動き出す。AIの台頭とテック資本による買収圧力にさらされたメディア産業を舞台に、伝統と変化をめぐる攻防が繰り広げられる。
作品のテーマについて
前作「プラダを着た悪魔」が描いたのは、ファッション業界という閉じた世界を舞台にしたパワーゲームと成長譚だった。今作がそこに加えるのは、時代そのものとの対話だ。
AIの台頭、メディア産業の構造的な縮小、テック資本による買収、、、脚本はこうした現実を取り込み、ランウェイ誌という伝統的なメディアが何と戦い、何を守ろうとしているのかを問う。近年の続編といえば「トップガン マーベリック」と近いテーマを感じる。あの映画が「だが今じゃない」と言っていたように、本作もまた「変わるもの」と「変えてはならないもの」の境界線を探り続ける。近年こうしたテーマの映画が増えていることは、時代の空気を反映している。
ミランダ・プリーストリーという人物の立ち振る舞いと、彼女をめぐる状況の変化。20年前のミランダはただの独裁者として機能していた。今作のミランダは、時代に抗う者として機能している。この転換だけで、続編をこのタイミングに作ることの意味が成立している。
表現について
最も印象に残ったのは、レディ・ガガが登場するファッションショーのシーンだ。
ガガ本人が本人の役を演じ、ミランダとバックステージで鉢合わせする場面と、その後にステージで「Runway」を披露するシーン。実際にショーへ赴いたことがなくても、ショー会場にいるかのような臨場感がある。音量、光、衣装の細部。映像として情報が詰まっている。なお、このシーンはメリル・ストリープがガガに個人的に電話をかけて実現したものだそう。
全編通して音楽の設計も効いていて、ゴージャスという言葉が一番近い。バブルを感じさせるようなハイクオリティなサウンドが映像と合わさり、この映画の「気持ちよさ」を成立させている。
登場人物の実在感も一貫している。メリル・ストリープとアン・ハサウェイが20年後を演じているという事実がそのまま映像になっており、「キャラクターがそこにいる」のではなく「あの人たちが20年間そこにいた」という感覚がある。これは計算で作れるものではなく、キャストが同じであることの必然的な産物だ。
前作とセットで残る作品として
前作を超えるかどうかという問いに答えるとすれば、超えていない。ただしそれは批判でなく、構造的な必然だ。前作は「新しいもの」として世に出た。今作はその20年後として出てきた。同じ基準で比べることに意味はない。
問題はむしろ「続編として機能しているか」で、その点では十分だと思う。20年という時間は、劇中の人物たちだけでなく、観客にとっても流れている。その時間の重みを映画が引き受けているから、ただのノスタルジー消費には終わっていない。
前作のファンでなければこの映画を単体で楽しむことはできる。ただ、登場人物たちに対して抱く感情の根は、前作に張られている。その根の深さで、受け取れる量が変わる映画だ。ファンのための映画、と言ってしまえばそれまでだが、ファンに向けてこれだけの誠実さで作られた続編は決して多くない。
「プラダを着た悪魔」はカルト的な人気を持つ作品として残っていく。今作はその続きとして、一緒に人気を持つ作品となるだろう。
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